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2017年4月4日火曜日

「応えられた祈り」


「応えられた祈り」

 あるイギリス人(作者名不明)の祈りの詩の日本語訳(山形謙二氏の訳)

功績を立てようと、神に祈り求めたのに
  謙遜に服従するようにと、弱さを与えられた。
より大きなことをしようと、健康を祈り求めたのに
  より良いことをするようにと、病気を与えられた。
幸福になるようにと、富を祈り求めたのに
  賢くなるようにと、貧しさを与えられた。
人々の賞賛を得ようと、権力を祈り求めたのに
  神の必要を感じるようにと、弱さを与えられた
人生を楽しもうと、あらゆるものを祈り求めたのに
  あらゆるものを楽しむようにと、人生を与えられた。
祈り求めたものは何一つ与えられなかったのに
  実は私が望んでいたすべてのものが与えられた。
このような私にもかかわらず、私の言葉にならない祈りは応えられ
  すべての人にまさって、私は最も豊かな祝福を与えられたのだ。


これは何を意味しますか?これは実際によくあることです
何故なら御業をされるとき 自分がしようとすることは邪魔になるからです
御心は明け渡さなければ何も始まらないという事です。

マタイ19:24 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。

自分の財産を頼ることにより神に対する信仰を失っているからです
ですから 御業をされるときにはあなたが 一番大事なもの 自分の頼りにしているものを
取り除かれます しかしそれは祝福への第一歩であり そこであきらめてしまえば 遠く神から
離れてしまいます 人性の転換きでは 覚悟が必要な時があります
ご計画されている御業が大きいほど 取り除かれることが あります。

又人の技は全て罪です 仲保者 によって 義と されているだけです
救いも自分の義として数われたわけではありません
全てが「ありがたいで終わってしまってはいけません キリストの品性を表すものとなり世にヤウエーの栄光を表す必要があります
キリスト教伝道センター | サンライズミニストリー
http://srministry.chicappa.jp/srmain/

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