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2019年1月26日土曜日

私たちは完全である日必要はないか?

私たちは完全である必要はないか?

マタイ5:48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

結論は明白です今完全で無いから あなたがたも完全な者となりなさい。 と書いてあるのです


罪を犯さない状態は不可能なように見えますが 初めに神がアダムを創造された状態に戻すというほうが解りやすいかと思います


複雑な説明を除けば神の御心はこの状態に復帰させることが目的である事は確かです

細かいところにとらわれがちですが 何のための贖いか?何のためのキリストか? よく考えればわかる事です 



ここでキリストを神として贖いをしたのか それとも 人として贖いをしたのか  という
事がはっきり分かれてきます。

2ヨハネ
1:7 なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が

、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。

この意味は神だから一つの罪も犯さなかったのか 人として我々と同じ条件で罪を犯さなかったという事です


もう一つは 罪の中においても救われる 罪から救われる の違いも明らかな 違いが結果に表れます。

長年教会に通いましたが 罪の中においても救われる で 結末がどうなったかは ひどいものが多いです

明らかに 清まった人を見たことがありません 牧師の不倫 や 献金の流用 不道徳 に ニュースなどで驚かされるのは日常茶飯事です

罪の中においても救われる は キリストを信じさえしていれば 罪を 犯していても 良いよ と言っているのです

罪から救われる とは 罪を犯さなくなることです 

罪の中においても救われるは最初から罪を犯すことを前提にしています これは取って食べても死なない と同じです

罪を犯す犯さないかどうかは結果です 我々は最初から罪を犯さない(信仰による)ことを目標にして 毎日をスタートするのは御心なのは当たり前です。


ローマ6:15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。

マグダラのマリアにももう罪を犯さないように と言われました


では 無理なようですが 出来るのは キリストの贖いによってできるのです 贖いによって罪許されるとは皆さんご存知ですが

贖いによってつみを犯さなくなり 罪なき完全なもの となる事は可能なのですがあまりそれを言う方は少ないです 

最後に現れる14000人は罪なき者と書いてあります これは キリストと同じく初穂と表現されています。

キリストにつながれば必ずキリストの実を結びます
あなたが何処につながっているかその実により解ります

いつまでたっても世俗的な罪を繰り返すなら キリストとはつながっていないから 違う実を結んでいるのです

理由は 天の幕屋におられるキリストが大祭司として 我々の罪のとりなしを されているからです (ここでは詳しくは述べませんが)

ですから 罪から逃れたいという 信仰が無ければ 罪はなくなりません 最初から 罪を犯しても良いは明らかにサタンの手口です

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