普段の生活において キリストに仕える者は 心を尽くし 人に使えなければならない
自分の利より 人のために働かなければならないのですが
ところが そんなに 最初から能力があるものでもありません
そのような 働きができ 人の役に立つには相当な経験や忍耐が必要です
要するにそれが出来れば神の栄光を表すことの一つになります
これは自力ではできません しかし 本当にあなたが 天父の栄光を表したいのなら
又そういう信仰があるなら 天父の御力により成し遂げることができます。
これは 自分の能力では到底できないことであります。
自分の能力でやろうとすると 失望や苦い経験をします 一見悪いことの様に思えますが 起用にこなせる人には 神の御力は必要ありません いわゆる カインの捧げもの(地の産物)は退けられます。
本当にへりくだると いう事は 自分の能力に頼らず 天父に頼るという事です。
祈りと信仰により与えられます 一生かけてやるぐらいの覚悟が必要です
これらの力 能力 奇跡は 信仰と祈りにより 天父から 来るものです
ヨハネ
11:42 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
聖書がいいっているのは地上のキリストが祈って天父の栄光を現したという事です
しかしながら 今日 多くの教会は 聖霊が充満し溢れでて 奇跡や能力が顕れると教えています。これは 大変な誤謬です 自分の中からあふれ出るもの としています。
内在の聖霊と天父から来る聖霊の働きでははっきりと違いがあり奇跡を内在自分からでたものと勘違いさせて 神秘主義へと誘導しています いわゆる 心霊術オカルトの類です
この様な考え方はニューエイジ思考であり大変きけんであります ご自分で注意深く聖書を読めばわかります
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2017年5月30日火曜日
2017年5月27日土曜日
2017年5月26日金曜日
律法(トラー)の実態と影
律法(トラー)の実態と影
この律法に関して言えば
コロサイ2:17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある
これは前後を見ればわかる通り その方法に対してジャッジしてはいけないという事でありそのもの自体はあるという事です 自分の都合で解釈すると違う意味になります 指導者も同じような間違った理解をしています。
この律法の廃止と言う間違った考え方について書きたいと思っています。
皆さんご存知のゲッセマネでペテロにヤシュア(イエス)は寝てはいけないと言われました この日は過ぎ越しの日ですしかしながらゲッセマネでも 過ぎ越しの食事でも足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。とはいっておられないのです
出エジプト12:11 あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。
↓起きていなさいは以下にも同じような意味があります
マタイ25:7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
勿論急いで出ていかなければならないので寝ている暇はありません
重要な時なのです。ここを見てもわかるように規定はなくなり 意味において旧約よりさらなる重要な意味がそこに書かれています 規定(影)はなくなっています
が重要な過ぎ越し(贖い)の意味は失われていません。
しかしながらこの影は意味をよく理解しなければ 関係無いとするだけでは 実態も見失うことになるかもしれません。これらを廃止とすることで見失う事があってはなりません
影となる所のみがさらなるものに置き換わったのです
へブル8:1 以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、
8:2 人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。
8:3 おおよそ、大祭司が立てられるのは、供え物やいけにえをささげるためにほかならない。したがって、この大祭司もまた、何かささぐべき物を持っておられねばならない。
8:4 そこで、もし彼が地上におられたなら、律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが、現にいるのだから、彼は祭司ではあり得なかったであろう。
8:5 彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。
8:6 ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。
8:7 もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。
8:8 ところが、神は彼らを責めて言われた、「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る。
8:9 それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、わたしも彼らをかえりみなかったからであると、主が言われる。
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。
8:11 彼らは、それぞれ、その同胞に、また、それぞれ、その兄弟に、主を知れ、と言って教えることはなくなる。なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、彼らはことごとく、わたしを知るようになるからである。
8:12 わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」。
8:13 神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。
この律法に関して言えば
コロサイ2:17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある
これは前後を見ればわかる通り その方法に対してジャッジしてはいけないという事でありそのもの自体はあるという事です 自分の都合で解釈すると違う意味になります 指導者も同じような間違った理解をしています。
この律法の廃止と言う間違った考え方について書きたいと思っています。
皆さんご存知のゲッセマネでペテロにヤシュア(イエス)は寝てはいけないと言われました この日は過ぎ越しの日ですしかしながらゲッセマネでも 過ぎ越しの食事でも足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。とはいっておられないのです
出エジプト12:11 あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。
↓起きていなさいは以下にも同じような意味があります
マタイ25:7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
勿論急いで出ていかなければならないので寝ている暇はありません
重要な時なのです。ここを見てもわかるように規定はなくなり 意味において旧約よりさらなる重要な意味がそこに書かれています 規定(影)はなくなっています
が重要な過ぎ越し(贖い)の意味は失われていません。
しかしながらこの影は意味をよく理解しなければ 関係無いとするだけでは 実態も見失うことになるかもしれません。これらを廃止とすることで見失う事があってはなりません
影となる所のみがさらなるものに置き換わったのです
へブル8:1 以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、
8:2 人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。
8:3 おおよそ、大祭司が立てられるのは、供え物やいけにえをささげるためにほかならない。したがって、この大祭司もまた、何かささぐべき物を持っておられねばならない。
8:4 そこで、もし彼が地上におられたなら、律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが、現にいるのだから、彼は祭司ではあり得なかったであろう。
8:5 彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。
8:6 ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。
8:7 もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。
8:8 ところが、神は彼らを責めて言われた、「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る。
8:9 それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、わたしも彼らをかえりみなかったからであると、主が言われる。
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。
8:11 彼らは、それぞれ、その同胞に、また、それぞれ、その兄弟に、主を知れ、と言って教えることはなくなる。なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、彼らはことごとく、わたしを知るようになるからである。
8:12 わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」。
8:13 神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。
2017年5月24日水曜日
聖書による携挙の時期と有様
携挙には艱難前携挙説 と 艱難後携挙説 があります 艱難前携挙説はそもそも イエズス会リベラにより1588年に宗教改革に対抗し反キリストは未来に出現すると言う神学を立てたこれに影響を受けたダービーの解釈を黙示録の開設に付けられたため 現在の偽教理の艱難前携挙説が主流を占めるようになった もともと ローマ教皇が666の獣であることを 宗教改革のリーダーたちがこぞって 述べたため この隠蔽工作の為に作られた教理であることを知っておくべきです
2017年5月23日火曜日
あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。
ルカ6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。
6:36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。
憎いやつが必ずいます どう見ても こいつ ひどいなあ というような奴です
さてどうしますか? 仏も神もありゃしない
となるのが通常です 人の力はそんなものです。
しかし 無理をしてもいいですから その人のために祈ってみましょう キリストの心の内が少しは理解できます
又あなたもつい最近までそのような人だったかもしれません
まあ許せるところまでいかなくても キリストの御心が解るなら 少しはキリストのご品性に向かって進歩できるのです
ルカ6章全文
6:1 ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。
6:2 すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。
6:3 そこでイエスが答えて言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。
6:4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。
6:5 また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。
6:6 また、ほかの安息日に会堂にはいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。
6:7 律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日にいやされるかどうかをうかがっていた。
6:8 イエスは彼らの思っていることを知って、その手のなえた人に、「起きて、まん中に立ちなさい」と言われると、起き上がって立った。
6:9 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。
6:10 そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった。
6:11 そこで彼らは激しく怒って、イエスをどうかしてやろうと、互に話合いをはじめた。
6:12 このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。
6:13 夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。
6:14 すなわち、ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、
6:15 マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと、熱心党と呼ばれたシモン、
6:16 ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ。このユダが裏切者となったのである。
6:17 そして、イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれたが、大ぜいの弟子たちや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロとシドンの海岸地方などからの大群衆が、
6:18 教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。そして汚れた霊に悩まされている者たちも、いやされた。
6:19 また群衆はイエスにさわろうと努めた。それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである。
6:20 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
6:21 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。
6:22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
6:23 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。
6:24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
6:25 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
6:26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。
6:27 しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。
6:28 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。
6:29 あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。
6:30 あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。
6:31 人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。
6:32 自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。
6:33 自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。
6:34 また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。
6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。
6:36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。
6:37 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
6:38 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
6:39 イエスはまた一つの譬を語られた、「盲人は盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。
6:40 弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう。
6:41 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
6:42 自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。
6:43 悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。
6:44 木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。
6:45 善人は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。
6:46 わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
6:47 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。
6:48 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。
6:49 しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
2017年5月14日日曜日
聖書はイエスの神性を取り除くために偏向されています
どのように具体的に改ざんされているか よく説明されています。
一見解りませんがよく見ると過去との関わりを変えて内容を大きく変えてあります
キリストが旧約の預言の成就だという事になるとメシアの証明になりますのでそれを逸らすために変えてあります
黙示録 世の終わりと再臨はどうなるか ヤウエの品性である 十戒(トラー) を侮るなかれ!
事の問題 神とサタンの戦いの論点は創世記で最初からわかっている
善悪を知る木とは律法の事と命の木キリストの事ですが 律法に従わない神を必要としない者と神に従うものの戦いであることは間違いないだろう
しかし未だキリスト教では律法廃止を言うものが多いユダヤのタルムッドをモーセが示されたものと勘違いしても当たり前である
又ユダヤとイスラエルの区別もつかない大先生も多い。
律法が終わったとか言っている先生方 聖書の中には律法を否定的に書いているところはありません あえて 表面的に言えばコロサイ2 とガラテヤですが よく読むと否定でも何でもありません 又安息日も その時には冬安息日にならないように祈れと書いてあります。最後の時まで安息日もあります。
生半可な知識と屁理屈だけでは聖書は解読できないのは当たり前である
そうでなければ イスラエルも滅びないでいたはずだ 上っ面の理解だけですべてが解ったと思っていれば最後に恥をかくことになる。偽物カトリックやユダヤの教理に惑わされ最後に神の御前で審判を受けることになる ヤウエの品性である 十戒(トラー)
を侮るなかれ!
2017年5月13日土曜日
ダニエル書2300日と再臨運動
ダニエル書2300の朝と夕
ダニエル8:14 彼は言った、「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」ではエルサレム再建命令から2300日の夕と朝つまり2300年はいつでしょうか 起点をエルサレム再建命令にする根拠は後ほど書きます
紀元前457年から2300年は1844年になります
これを裏付けるものが 2つあります一つは
ダニエル7:25 彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。
7:26 しかし審判が行われ、彼の主権は奪われて、永遠に滅び絶やされ、
黙13:5 この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。
2017年5月11日木曜日
試みの時信仰が試されます
その時が来ると 神様ごめんなさいでは通用しなくなります。
今はほとんどが用意されています キリストが手本となられたからです
今はどの人も良いクリスチャンの様に見えますが試みの時にはその姿ははっきりしてきます 自分に対するご利益なのか キリストに対する愛なのかがはっきりしてきます
その時までにキリストの品性を身に着けてください
今はほとんどが用意されています キリストが手本となられたからです
今はどの人も良いクリスチャンの様に見えますが試みの時にはその姿ははっきりしてきます 自分に対するご利益なのか キリストに対する愛なのかがはっきりしてきます
その時までにキリストの品性を身に着けてください
試みの時がくると、神のみ言葉を自分の人生の尺度とした人たちは、
はっきりわかるであろう。夏には常緑樹とほかの木々との間には著しい
違いがないが、冬の木枯らしが吹く時になると、常緑樹は変わらないが、
ほかの木々は葉が落ちて裸になる。同様に、現在は心に偽りのある信者
と真のクリスチャンの見分けがつかないが、その違いが明らかになる日
が、今まさにわれわれにのぞもうとしている。反対が起こり、頑迷と偏
狭が再び吹きまくり、迫害の火が燃やされる時に、二心の偽善者たちは
動揺して信仰を放棄するであろう。しかし真のクリスチャンは岩のよう
に堅く立ち、繁栄の日よりも信仰が強くなり、望みは一層明るくなるで
あろう。・・・・
2017年5月10日水曜日
ツタンカーメンとは誰だったのか?
ツタンカーメンの死因は出エジプトの際イスラエルに関係があるようです
ツタンカーメンの父親は紅海でなくなったようです どうやら 長子の災い(彼は王の跡継ぎ)でなくなったようです
2017年5月9日火曜日
2017年5月8日月曜日
契約の箱の発掘 失われたアークの謎
契約の箱の発掘 失われたアークの謎
日本でも契約の箱が剣山にあるとかひそかに噂されていますが イザヤがエルサレムの洞窟に隠したと言われています考古学者 ロンワイアット が 探したところ キリストが処刑されたゴルゴダの丘の真下に裂け目がありキリストの血が契約の箱に注がれていた
何とその血を研究機関に鑑定してしまった所 その結果はいかに?
この実話は映画インディージョーンズ失われたアークの元ネタになったそうだ
2017年5月3日水曜日
イエスの墓
イエスの墓
エルサレムのアラブ人街に園の墓 そこには 古代から(1世紀ごろ)岩をくりぬいて作った墓があります そこには 聖書の記述と合致する墓 洞窟があります
そこがイエスの墓と言われる場所です。内部の作りなどは 聖書の記述とほぼ同じです
石の封印なども見つかっています。 封印に使われた金属は研究機関で分析すると古代ローマが使っていたのと同じ手法で作られていたことが判明しました。そこには屋根がついていたらしく礼拝の場所として使われていたそうです。すなわちキリストの墓の可能性が高いという事が解りました。
園の墓https://www.google.co.jp/maps/place/The+Garden+Tomb+Jerusalem/@31.7851427,35.2260627,1067m/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x0:0x6aca923e271b71b2!8m2!3d31.7839571!4d35.2301718
ヨハネ
20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
20:2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。
20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。
20:4 ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、
20:5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
20:6 シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、
20:7 イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。
20:8 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。
20:9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。
20:10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
20:11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
20:12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
20:13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
20:14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
2017年5月1日月曜日
ノアの箱船 が いよいよ 発掘調査に
ノアの箱船
旧約聖書の物語で有名なノアですが彼は神の啓示のもと 洪水が起きるから箱舟を作るように 命じられ 箱舟を作るが 他の人からは 信用されなかったが 本当に洪水が起こり他の人は滅びますさて これらの神話のような話が本当だったのです
google earth で 探せます
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多くを知る必要はないのかもしれない
聖書の知識 知っていることは必要ですが 多くの事を知っていても キリストの性格 と自分の性格が乖離していれば 何の意味もありません 知識だけでは 全うすることはできないでしょう。 知識を得たいと言うのは自分の知的願望であって キリストを知りたいと言う願望とは性質の違うものに...
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最近lgbtなどの話題が良く議論されていますが 何故このような議論が行われ意見が二分され 尚 それぞれの意見を持つ方が 確信が無いのか以前から解っていましたのでその理由を書きたいと思います マタイ22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なる...
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申命記22:9 ぶどう畑に二種の種を混ぜてまいてはならない。そうすればあなたがまいた種から産する物も、ぶどう畑から出る物も、みな忌むべき物となるであろう。 22:10 牛と、ろばとを組み合わせて耕してはならない。 22:11 羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない ...
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選民なら優生学にたたず なおさら 謙虚でなければならないと思う 教会に行くと必ずこういう人たちがいます 牧師でもなんでも関係ありません 自分たちは神の言葉を代弁していると思っていても 自分の経験や信仰から話さなければまったく説得力がありません がそのことを知らず に自...