聖書は霊感を受けた人々によって書かれましたが、神の思考や表現の
形式で書かれたのではありません。それは人間の言葉で書かれており、
神は著者として(直接的にはー訳者)あらわされていません。人々は
よく、こんな表現は神らしくないと言います。しかし神は、聖書が神の
言葉であることを示すために、ご自身をその言葉や論理や表現に入れて
はおられません。聖書の記者たちは、神の代わりに書いたのですが、神
のペンではなかったのです。このことは、いろいろな聖書記者を見れば
わかります。
霊感を受けたのは聖書の言葉ではなく、人でした。霊感は言葉や表現
に働いたのではなく、その人自身に働いたのです。彼らは聖霊の影響を
受けて、思想を与えられました。しかし聖書の言葉は、個々の聖書記者
の影響を受けています。神のみ心はその言葉の中にゆきわたっています。
神のみ心と意志が人間の心と意志に結びついて、人間の言葉が神の言葉
となったのです。
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2017年8月20日日曜日
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