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2017年10月24日火曜日

神様は、自分の息子に「同情している」と言っている人たちを見て、彼らを試し、口で言うイエスに対する「愛」を確かめている

ユダヤ人がイエスを拒んだり、十字架につけたりした事を考えると、ぎょっとする人は多い。 その恥ずべき虐待の話を読むと、「私はキリストを愛してい る。 自分なら、ペテロのように否定はしなかっただろうし、ユダヤ人がキリストを十字架につけたような事はしなかっただろう」と彼らは考える。 しかし神様は、自分の息子に「同情している」と言っている人たちを見て、彼らを試し、口で言うイエスに対する「愛」を確かめている。 GC 104.2
天国にいる者は皆、メッセージが受け入られるかどうか、興味津々に見た。 でも口で「イエスを愛している」と言い、十字架の話を読むと涙を流す人の多くは、メッセージを喜んで受け入れるどころか、憤慨し、イエスのやって来る良い知らせをあざけったりして、「あれは妄想に決まっている」と断言する。 彼らは、イエスの現れを心から期待した人たちを嫌って、仲間外れにし、各教会から締め出した。 最初のメッセージを拒んだ人は、第二のメッセージの恩恵が味わえなかった。 そして信仰上、イエスと一緒に天国の聖所の一番聖なる部屋に入るための準備を整えてくれる「真夜中の叫び」の恩恵も味わえなかった。 また、先の二つのメッセージを拒んだので、至聖所への道を示している第三の天使のメッセージにある光が見出せない。 名ばかりの教会は、ユダヤ人がイエスをはりつけたように、これらのメッセージをはりつけにした事を私は見た。 だから彼らは、天国で行なわれた移動や至聖所への道が分からない上、イエスがそこでしている仲裁の恩恵が味わえない。 ユダヤ人が無駄ないけにえをささげたように、彼らはイエスが去った聖所の部屋の方に無駄な祈りをささげる。 「イエスに従っている」と自称する人がだまされ、わなに掛かっているので、サタンは喜んでそのわなをしっかりと締める。 彼は宗教的な様子を装い、この「クリスチャン」と自称している人たちの注意を自分の方に向けさせ、力、しるしや不思議な偽りを見せて働く。 ある人をある方法でだまし、他の人を違う方法でだます。 彼はそれぞれの考え方に合う惑わしを作って、仕掛けてくる。 ある惑わしに対してぎょっとしても、別の惑わしを容易に受け入れる人がいる。 サタンは、ある人たちを交霊術で惑わす。 また、光の天使のふりをしながら、やって来て、影響を地に広げる。 至る所に偽りの改革が起こっているのを私は見た。 各教会は、「神様は我々のために素晴らしい事をしている!」と意気揚々に受け取ったが、本当は、これが違う霊のしわざだった。 こんなものは次第に消え、世と教会を以前より悪い状態に残してしまう。

2017年10月21日土曜日

1844の再臨運動の間違いをセブンスデーアドベンティストに押し付ける 日曜教会の人たち

丁寧に書いても伝わることが無いので 不遜ですが露骨に書かせていただきます
1844の再臨運動の間違いをセブンスデーアドベンティストに押し付ける 日曜教会の人たち!!!
このころ再臨運動は世界中で起こっていました以下の様にあのジョージ·ミューラー ジョセフヲルフ ヨハンベンゲル エドワードアービング ルイス·カウセン ドイツのヨハン·リヒターこの人たちは今の教会のベースになった人たちです
sdaセブンスデーアドベンティスト 以外にもたくさんの教団が再臨運動をやっています 何故再臨が無かったのか その誤りを見つけ正したのがsdaセブンスデーアドベンティスト なのですが 他人のせいにして 難を逃れたい人たちは 再臨預言が外れたので教理を聖所が清められると変更したとウィキペディアなどに書いています ある意味卑怯と言えます
ダニエル書8:14 彼は言った、「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」。
これはsdaが再臨ではなく聖所が清められると言う意味とレビ記へブル書の関連から探し出したものです 
もう一つ異端視される理由として 大天使ミカエル=イエス という 見解ですが これも以下を見れば いかに日曜教会の牧師が如何に不勉強かよくわかります 借り物の知識だけで人を批判するな! と言いたいのですが 意見のある方は 良く調べて 是非まともな反論を期待します以下のリンク先に 詳しく書いています
又エレンジーホワイトを読みもせず批判されます まあ 批判するなら一度読んでから批判していただきたいものです。教会で破廉恥牧師の話や 献金キ〇ガイの牧師の話を平気で聞き信用するが 聖書以外の者を使うと言って批判されます
日曜教会にはインチキな聖霊運動心霊術この様なもの及び偽預言者を放置しておき 他教会の預言の賜物を 読みもせず 批判されます 流石太陽礼拝の方々と言う感じでしょうか
愛があるあなたたちは 立派な差別者であります教団や人の話 権威があるとされている人たちの話を自分でよく調べ どのような背景や歴史でそのような話になているのかを考慮してみてください 言っておきますが 罪の傾向にある人間には聖霊に示されなければ何も聖書の言葉は理解できませんそれが最大の謙虚さです


2017年8月26日土曜日

人を迷わすような表現の危険


あなたの質問のいくつかについて、私は「はい」とか「いいえ」とか
いう答えはできません。誤解を招くような言葉を述べることはできない
のです。神が私に与えられたメッセージについての、人を迷わすような
言葉を聞いて、時としてその魂を危険に陥れた人々のことを私は示され、
また実際に見ています。私の言葉を歪め、間違った推論をして、自分の
個人的な不信を正当化しようとする人たちがいます。
1-2 エレン・G・ホワイトとその著作
17
はっきりした証拠もないのに疑い、懐疑主義となり、間違った推理を
して霧の中を歩いているような兄弟たちを気の毒に思います。彼らのあ
る人々は、その霊的な視力をくもらせている障害が取り除かれ、正しく
見ることができれば勧告を与えるメッセージによって祝福を受けること
ができるのを私は知っています。しかし、彼らが正しく見ないために、
私は彼らに伝えることができないのです。神のみ霊が、彼らの抱いてい
る神秘主義を追い払えば、昔同様、私が与えるように導かれたそのメッ
セージの中に、全き慰めと信仰と希望を見いだすことができるのですが。
真理は確実に勝利します。人間をサタンの惑わしからあがない出すた
めに命を与えてくださった方は、眠ることなく見張っていてくださいま
す。そのお方の羊たちは、見知らぬ他の人たちの声に従うのをやめる時、
自分たちが喜んで従いたいと思った方の声を聞いて、本当にうれしく思
うのです。

2017年8月24日木曜日

十戒は

十戒は、神ご自身によって語られ、神ご自身の手によって書かれた。
それは神がおつくりになったものであって、人間のつくったものではな
い。しかし、神から与えられた真理が人間の言葉に表現されている聖書
には、神的なものと人間的なものとの結合がみられる。このような結合
は、神の子であると同時に人の子であったキリストの性質の中にもあっ
た。このように、『言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った』という
ことは、キリストご自身についてと同様に、聖書についても言えるので
ある(ヨハネ 1:14)。
聖書は、時代が異なり、身分や職業、また知的霊的な才能も広く異な
った人々によって書かれたので、その中の諸書は、そこに示されている
主題の性質が異なっていると同時に、その文体にもいちじるしい対照が
みられる。それぞれ異なった記者によって、それぞれ異なった表現形式
が用いられている。同じ真理を、ある記者は他の記者よりも特にめだっ
て強調していることがよくある。幾人かの記者が、異なった角度と関連
から1つの主題を示しているので、浅薄に、不注意に、あるいは偏見を
もって、これを読む者には、相違や矛盾があるように思われるかも知れ
ないが、思慮深い、敬虔な者が、はっきりした眼でこれを読めば、その
根底には調和があることに気づくのである。
真理は、いろいろな人によってあらわされているので、いろいろな角
度から示されている。ある記者は問題のある一面に特に強い感動を受け
ている。彼は、自分の経験や自分の知覚力、認識力に合う点を把握して
いる。またある者は、これとは異なった一面を把握している。そしてお
のおのは、聖霊の導きのもとに、自分の心に最も力強く訴えるものを示
しているのである。すなわち、それぞれに真理の異なった一面をもって
いるが、しかしそこには、全体を通じて完全な調和がみられるのである。
このようにしてあらわされた真理は、結合して完全な全体を構成し、人
生のあらゆる境遇と経験の中にある人々の要求にこたえるのに適したも
のとなっているのである。
神は、ご自分の真理を、人間を通して世にお伝えになった。そしてご
自分の聖霊によって、人々に、この働きをなす資格と能力をお与えにな
った。神は人を導いて、語るべきことと書くべきこととを選ばせられた。
1-2 エレン・G・ホワイトとその著作
13

2017年8月22日火曜日

神は不完全な人間の言葉を用いて語られる

神は不完全な人間の言葉を用いて語られる
神は地上に住む人間の堕落した感覚、鈍い理解力でも神の言葉がわか
るように、不完全な(人間の)言葉で語られます。神はこのように身をか
がめてくださるのです。堕落した人間がいる所で、会ってくださるので
す。聖書は、単純さにおいては完全ですが、神の偉大な考えをあらわす
には不十分です。なぜなら、神の無限の考えは、思想の伝達手段である
人間の有限な言葉では完全にあらわすことができないからです。聖書の
表現は誇張されていると考える人がたくさんいますが、聖書記者が天よ
りの真理を伝えるためにもっとも強力な表現を選んでも、その思想があ
まりに壮大なので役に立たなくなってしまうのです。罪を持った者は、
天の栄光の輝きの影しか見ることができません

多くを知る必要はないのかもしれない

聖書の知識 知っていることは必要ですが 多くの事を知っていても キリストの性格 と自分の性格が乖離していれば 何の意味もありません 知識だけでは 全うすることはできないでしょう。 知識を得たいと言うのは自分の知的願望であって キリストを知りたいと言う願望とは性質の違うものに...