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2017年3月10日金曜日

食べ物安息日を評価されてはならない コロサイ2:16


下らない反論お待ちしています

これを否定的と捉えるのは 読みが浅い
前後と文意をちゃんと理解しないと
安易な解釈 あちらは こう書いてありますが こちらはこう書いてあるからこうですよ というような読み方では 理解できません

批評されてはならないと書いてあります 
読売巨人軍の批評はしてはいけませんを
読売巨人軍は存在しませんと言っているようなもの
要するにこういった物の中の細かい規則影(キリストが実体)であり細かい規定(私はどこまでが影かまだ分かりませんが)そのことで裁いてはいけませんよ と書いてあるのですタルムッド 言い伝えなどに対しても書いてあると思います
コロサイ
2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。

よくある 律法は成就したから守らなくてよいが その精神は重要である と 言われる方がありますが これって なんですのん?反対の反対は賛成なのだ~ と バカボンのパパみたいな話はあり得ません

律法は体 神の宮として汚さないと言う意味で律法に食事の規定が書いてありますです その中に影の部分があるとしても 体を汚さないという意味では実体の律法は有効です


何処か存じ上げませんが 私よりは マトモそうな 牧師さんもそういっておられます 

http://efctachi1.cocolog-nifty.com/…/2013/06/26-23-8787.html
4. 「本体はキリストにある」のに、その「かしらに堅く結びつくことをしません」
  「こういうわけですから・・」(16節)とは、8-15節の説明を踏まえて、キリストにある新しい民としての具体的な生き方の勧めです。ユダヤ主義者はギリシャ人を中心としたコロサイ教会に、モーセ五書をベースにしていると言われる「食べ物と飲み物・・祭りや新月や安息日」の「言い伝え」を守っていなければ神の民としてふさわしくないと「批評」(または「裁いて」16節)していましたが、それに対し、パウロは、彼らの主張に耳を傾けてはならないと命じました。
ただし、パウロは、聖書に記された食べ物や祭りの規定を否定したのではなく、「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにある」(17節)と表現しました。
イエスご自身が、「わたしが来たのは律法や預言者を・・廃棄するためではなく、成就するために来た」(マタイ5:17)と言われたからです。  

ユダヤとモーセの律法を勘違いしている例 ごめんなさい↓
http://heartland.geocities.jp/sfddrcc/colossians.html
No.06『本体はキリスト』
◆コロサイ人への手紙2章16~17節
こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。
 旧約聖書には律法というのがあります。一般にモーセの律法と言われるもので、十戒を代表とする様々な倫理規定のことです。そこには、道徳的なものもあれば、祭儀的・宗教的な規定もあり、更には司法に関する取り決めなどがあります。ユダヤ人はこの律法を神の命令と信じて大切にしてきたし、それ以外の預言書や諸書と呼ばれる旧約聖書の文書も、律法の精神に基づいて記されているのです。キリスト教はこの旧約聖書を正典とみなしているので、ユダヤ人同様にそれが神の言葉だと信じていることになります。ところが、現代、私たちクリスチャンは律法を守っているでしょうか。そこに記された細かな規定を守っているでしょうか。それを守ろうと必死になっているユダヤオタクみたいなキリスト教徒がいますが、果たしてそれは正しい態度なのでしょうか。実際、使徒たちは律法の細かな規定を守っていなかったのです。ペテロにせよパウロにせよ、ユダヤ人コミュニティーの中にいる時だけは、ユダヤ人に合わせていましたが、異邦人たちと共にいた時は律法の規定を犯していたのです。なぜでしょう。それは、律法というものが「次に来るものの影であって、本体はキリストにある」からです。ですから、キリストが来られた以上、旧約聖書のお祭りや安息日律法などを守る必要はありません。律法には食物規定というのがあって、食べてはならない動物がいろいろありましたが、今はキリストが来られた以上、何を食べてもかまいません。律法は成就したのです。じゃあ、何をしてもいいのか?ある意味、何をしてもいいのですが、全てが益となるとは限りません。律法の様々な規定は終わりましたが、その精神はキリストを通して今も生きているのです。それは、神を愛し、自分を大切にし、同様に隣人を大切にするということです。本体であられるキリストを信じた以上、私たちは愛する自由の中を生きるのです。何ものにも縛られず、同時に、与えられた自由を愛することのために用いていきましょう。

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