例を上げますとクリスチャンになった時 煙草をやめましたが 煙草を吸っている時は
煙草をやめている自分と言うのは想像もできないものです 中毒になているわけですから なおさらそうです。
自分の思いの中には煙草を吸って 体を中毒患者の自分に戻したいわけです それが中毒 罪の法則です 今まで生きてきた自分が罪の中にあるほうが 楽なわけです
肉的な潜在意識は変化を嫌いますから もとに 戻したがるわけです。 又数か月 数年 経っても 罪の欲求は又出てきたりします ここではよほど注意しなければ又元の自分に戻され悪戦苦闘することになります
そこで 罪から逃れ 天父に喜ばれる品性になるには ゆだね 自分を変えてほしいと願わなければ 罪から離れられません。 そこに信仰が必要です へ
ブル11:1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである
間違った悔い改めとは ユダ や サウル のように 自責の念や良心はありますが 罪を犯した 怖さ や苦しみ から逃れようと するだけでは 又 繰り返します。これらはキリストから来る良心とは違います
キリストから引き寄せられる事を罪びとは拒みます 自然にゆだね 変えられる自分を 受け入れなければ なりません もう一つ重要なことは 通常の生活をしていれば気づきませんが キリストを知り その 恩寵 恵にあずかると 自分がいかに罪深いか解ってきます
それは キリストの品性とは程遠い生活をしていると言うことです。これを知ることにより ますます キリストの ご品性に 近くなられれば 幸いです。
さて 罪とは 何でしょうか? 律法に違反することです しかしながら 律法は思いの中にも適応されるわけですから 書いてあったことさえしなければ 良いと言うわけではありません その 思いの中に 生きた立法者 生きたトラー キリストが あるか ということが 重要です 上辺だけの罪に対する認識では すぐにやられてしまいます。 戒めは十戒を筆頭にモーセ5書 創世記から申命記までは関係ないと思っているクリスチャンが多いですが読む必要があります。 罪びとは神の戒めを堂々と破りますそして神の清さが苦しくなり神から離れます。
パウロは「律法の義については(外部に現われた行為)落ち度のない者 である」(ピリピ 3:6 )と申しましたが、ひとたび、おきての霊的精神 が理解されたとき、自分は罪人であると悟ったのであります。人がおき てを外的生活にあてはめ、おきてを字義的に解釈すれば、彼は罪を犯し ていなかったと言えるのであります。しかし、その聖なる条文の深い精 神を見つめ、神が見たもうように自らを見つめたとき、心へりくだって み前に伏し、自らの罪を告白したのであります。彼は「わたしはかつては、 律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたし は死んだ」(ロマ 7:9 , 1 0 )と申しました。間違ってはいけないのは 他のクリスチャンもあれぐらいだから とか そういう罪に対して 言い訳をする事です神は憐み深い方だから許してもらえる と 言うことです その罪の恐ろしさは十字架で示されたわけですから 今だ この様な事を言うのは明らかに間違っています。 又罪にふけるのを辞めることを 遅らせることも 問題です 何故なら罪にふけることにより 神を嫌う性質をやしなうからです
自分を神に捧げたいと望んでいながら、道 徳的の力が弱く、疑惑の奴隷となり、罪の生活の習慣に支配されていま す。どんな約束も決心も、砂のなわのように弱く、自分では自分の思想、 衝動、愛情を制することはできません。こうして約束を破り、誓いを裏 切って自分の誠実さに自信が持てなくなり、神は自分を受け入れて下さ らないのではないかと思うようになります。しかし絶望するには及びま せん。ただ必要なのは本当の意志の力とはなんであるかを知る事であり ます。意志とは人の性質を支配している力、決断力、選択の力でありま す。全てはただ意志の正しい行動にかかっているのであります。神は人 間に選択の力をお与えになりました。つまり人がそれを用いるようにお 与えになったのであります。私どもは自分の心を変えたり、また自分で 愛情を神に捧げることはできません。けれども神に仕えようと選ぶこと はできます。意志は神に捧げることができます
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