例えばこの聖書の聖は造語です キリストは書に書いてあると言われているように 今では屁理屈であるし聖がそれほど反対の意味を持つ言葉であるとは思わないですし そのためにすべての文章を否定しても意味がありませんが知っておく必要があります。
聖と言う言葉がごまかしの為に利用されているケースが多いからです。
政治 宗教 思想 すべての中には自分のアイデンテティーや願望を見たいがために自分の考えを正当化したいという考えを持ちたがる傾向にあります。
そういう人は自分の思っていることが真理なのか?判断できないために精神状態が不安定なために 愛 とか 神は とかを 必要以上に多発します。
ト教をよほど気を付けていなければ知らずにその異教偶像混合宗教とされてしまいます例を上げれば
例えば愛のある人は自分の事を愛であるとは言わないなぜなら大意では愛は他者の為のものだからです。
真理を持っておられるのはヤウエーのみですが個々感じ方が違うわけですが 最終的には真理にたどり着きます。
他の人と意見が違う時に論争が生じるのは自分の意見に確信が無いからです
最初から自分の思いを誇示しようとする 心が強いため他人を受け入れず
表面的な合意によって満足しようとします。もしくは他人を退けて 自分のアイデンティティーを確認したいため 必死になります。
この様な愛や強い思い込みはキリストとは何の関わりもありません又現実の中 政治や経済の中でそれを確証しようとすると ますます キリストから 離れたものになってしまいます。こういう方をクリちゃんと呼ぶようにしています
我々はそれで良しとされているのは キリストの中保があるからで 自らではよしとされないからですそこを勘違いすると自分の成果能力をもってしなければ 実社会では証明出来ません キリストから出た価値観と実社会での価値観は違うので キリストから出た価値観では現実社会では良しとはされません。
ですから キリストの中保なしでは良しとはされない 中保者なしでは単なる罪びとなわけですから たとえ 贖っていただけたとしても
罪を犯しても許されると 単純にいう事は キリストの血を再度流させる 不届きものとなります。
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