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2017年3月31日金曜日

タイガースのマット・マートン僕の人生の目的 

いつものように何を言うのか疑いながら聞いていました 最近クリスチャンと言いながらもどんな人がいるかもわかりませんから 用心するようにしています。

が 彼は簡潔にまともな事を言っています。キリストを伝えたいのでしょう
キリストを知らない人に伝えるのは素晴らしいことです
彼が好成績を残せる一つの理由であります。
しかし世の中うまくいっている時は 誰でもキリストを賞賛できますし
人に与えることもできます しかしながら 人性そううまくいくわけでもありません
成績や事業がうまくいかなくなってきたらどうでしょうか?
自分のプライドや世間体 を 気にし とても 苦しくなります。
あるものが 減っていくからです 自分の能力で解決できない無力さを感じるはずです

その時
ゼパニア1:12 その時、わたしはともしびをもって、エルサレムを尋ねる。そして滓の上に凝り固まり、その心の中で『主は良いことも、悪いこともしない』と言う人々をわたしは罰する。

というような 曖昧 で 信仰が無ければ 滅びます

何もない時ほど 御手を動かされます 又持つものを取り去られご自分の御業を表されます土師記参照↓

そのような強い朽ちない信仰を持つと 滅びずに主の民となることができます。

土師記7:2 主はギデオンに言われた、「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。
7:3 それゆえ、民の耳に触れ示して、『だれでも恐れおののく者は帰れ』と言いなさい」。こうしてギデオンは彼らを試みたので、民のうち帰った者は二万二千人あり、残った者は一万人であった。
7:4 主はまたギデオンに言われた、「民はまだ多い。彼らを導いて水ぎわに下りなさい。わたしはそこで、あなたのために彼らを試みよう。わたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行くべきだ』と言う者は、あなたと共に行くべきである。またわたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行ってはならない』と言う者は、だれも行ってはならない」。
7:5 そこでギデオンが民を導いて水ぎわに下ると、主は彼に言われた、「すべて犬のなめるように舌をもって水をなめる者はそれを別にしておきなさい。またすべてひざを折り、かがんで水を飲む者もそうしなさい」。
7:6 そして手を口にあてて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみなひざを折り、かがんで水を飲んだ。
7:7 主はギデオンに言われた、「わたしは水をなめた三百人の者をもって、あなたがたを救い、ミデアンびとをあなたの手にわたそう。残りの民はおのおのその家に帰らせなさい」。
7:8 そこで彼はかの三百人を留めおき、残りのイスラエルびとの手から、つぼとラッパを取り、民をおのおのその天幕に帰らせた。時にミデアンびとの陣は下の谷の中にあった。
7:9 その夜、主はギデオンに言われた、「立てよ、下っていって敵陣に攻め入れ。わたしはそれをあなたの手にわたす。
7:10 もしあなたが下って行くことを恐れるならば、あなたのしもべプラと共に敵陣に下っていって、
7:11 彼らの言うところを聞け。そうすればあなたの手が強くなって、敵陣に攻め下ることができるであろう」。ギデオンがしもべプラと共に下って、敵陣にある兵隊たちの前哨地点に行ってみると、
7:12 ミデアンびと、アマレクびとおよびすべての東方の民はいなごのように数多く谷に沿って伏していた。そのらくだは海べの砂のように多くて数えきれなかった。
7:13 ギデオンがそこへ行ったとき、ある人がその仲間に夢を語っていた。その人は言った、「わたしは夢を見た。大麦のパン一つがミデアンの陣中にころがってきて、天幕に達し、それを打ち倒し、くつがえしたので、天幕は倒れ伏した」。
7:14 仲間は答えて言った、「それはイスラエルの人、ヨアシの子ギデオンのつるぎにちがいない。神はミデアンとすべての軍勢を彼の手にわたされるのだ」。
7:15 ギデオンは夢の物語とその解き明かしとを聞いたので、礼拝し、イスラエルの陣営に帰り、そして言った、「立てよ、主はミデアンの軍勢をあなたがたの手にわたされる」。
7:16 そして彼は三百人を三組に分け、手に手にラッパと、からつぼとを取らせ、つぼの中にたいまつをともさせ、
7:17 彼らに言った、「わたしを見て、わたしのするようにしなさい。わたしが敵陣のはずれに達したとき、あなたがたもわたしのするようにしなさい。
7:18 わたしと共におる者がみなラッパを吹くと、あなたがたもまたすべての陣営の四方でラッパを吹き、『主のためだ、ギデオンのためだ』と言いなさい」。
7:19 こうしてギデオンと、彼と共にいた百人の者が、中更の初めに敵陣のはずれに行ってみると、ちょうど番兵を交代した時であったので、彼らはラッパを吹き、手に携えていたつぼを打ち砕いた。
7:20 すなわち三組の者がラッパを吹き、つぼを打ち砕き、左の手にはたいまつをとり、右の手にはラッパを持ってそれを吹き、「主のためのつるぎ、ギデオンのためのつるぎ」と叫んだ。
7:21 そしておのおのその持ち場に立ち、敵陣を取り囲んだので、敵軍はみな走り、大声をあげて逃げ去った。
7:22 三百人のものがラッパを吹くと、主は敵軍をしてみな互に同志打ちさせられたので、敵軍はゼレラの方、ベテシッタおよびアベルメホラの境、タバテの近くまで逃げ去った。
7:23 イスラエルの人々はナフタリ、アセルおよび全マナセから集まってきて、ミデアンびとを追撃した。
7:24 ギデオンは使者をあまねくエフライムの山地につかわし、「下ってきて、ミデアンびとを攻め、ベタバラに至るまでの流れを取り、またヨルダンをも取れ」と言わせた。そこでエフライムの人々はみな集まってきて、ベタバラに至るまでの流れを取り、またヨルダンをも取った。

7:25 彼らはまたミデアンびとのふたりの君オレブとゼエブを捕え、オレブをオレブ岩のほとりで殺し、ゼエブをゼエブの酒ぶねのほとりで殺した。またミデアンびとを追撃し、オレブとゼエブの首を携えてヨルダンの向こうのギデオンのもとへ行った。



2017年3月29日水曜日

十枚の銀貨 一枚足りずはお菊井戸か?


ルカ15:8 また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。
15:9 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。
15:10 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。
キリストは、迷った羊のたとえを語られたあとで、もう1つのたとえを語って言われた。「また、ある女が銀貨10枚を持っていて、もしその1枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。」
パレスチナの貧しい人の家は、大抵一部屋だけで、普通は窓もない暗い部屋であった。それに、部屋の中を掃くことはまれであったので、床
に落ちた銀貨は、すぐにちりやほこりの中に埋まってしまって、それを見つけるためには、昼間でも、あかりをつけて、よく気をつけて掃かな
ければならなかった。花嫁の結婚の時の持参金は、普通、何枚かの銀貨になっていて、彼女は、それを何よりも大切な宝としてしまっておいて、自分の娘に譲るこ
とにしていた。もしも、その中の1枚でも紛失すると、たいへんな災難とみなされた。また、なくなったものが発見されたときの喜びも非常なもので、近所の女たちもともに喜ぶのであった。
「見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うで
あろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう。」
このたとえも、前のと同じように、何かがなくなったけれどもさがしにさがした末に、発見することができて大きな喜びがあったという。大争闘より

もう一つ重要なのはこの結婚のための財産はキリストに嫁ぐためのものであります キリストに嫁ぐために必要なのは神のご品性である十戒でありますですから 10枚の銀貨とは十戒の事です
しかし一枚失われていますがそれは何でしょうか?
第4条の安息日なのです

2017年3月28日火曜日

偽物の愛



毎日キリスト教のsnsを見ていると 下らないなと思います

書いてあるのは 神の愛はすばらしい でも どう素晴らしいのか あまり書いてありませんよね 書いてあっても?と思うことが多いです

罪の事 自分の罪を悔いること いつまで 罪びとなのでしょうか? 許されたり救われたり 神の愛の内にある人が何故 でしょうか 一般人と変わりありませんね

自分の環境の悪さを嘆くしかし神がドウコウしてくださる でも 確かに動揺してるようにしか見えません 神に信頼がある人とは ちょっと違いますね

箴言3:6 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
3:7 自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ

何故でしょうか 信仰と思い込みを勘違いしているからです 答えを目に見えない処から探さず とりあえず 見えるものから解決を探していてそれで納得しているからです

2コリント5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。

もう一つ言えるのは 嘘の愛です 

一般的なクリちゃんの考え方では 神が愛であるから みな救われると 言う考え方です
しかし 聖書に書いてあるのは真神を信じるものしか救われないとはっきり書いてあります 確かに全ての人を愛しておられますが それは 中保者の故であり 仲保者を通さなければ愛は成立しません
信仰の義は一貫した聖書のテーマです。 神の愛を自分の罪を覆い隠すための嘘の衣に変えてはいけません この様な教えをして 信徒の数を増やそうとして 汚れた衣を着せている牧師たちです そのような人達は 他の人を神の言葉を欺いて 滅びに至らせた
血の責任を問われます。キリストに義の衣を着せていただきましょう

※必ず来る反論を書いておきます お前は救いが無いから哀れだ 神の愛を知ったら そういう風には ならない と言った 反論が来ます  ので 先に 書いておきます

神の哀れみは受けるが あんたらの憐みは受けない 

2017年3月26日日曜日

キリスト教とクリちゃん

キリスト教にはキリストの教えとニケア会議などで歪められた新興宗教キリスト教とがある この両面があることを知っておくべくべきなのですがこれを選別しようと思えばよほど聖書を読まなければわからない所があります。

 例えばこの聖書の聖は造語です キリストは書に書いてあると言われているように 今では屁理屈であるし聖がそれほど反対の意味を持つ言葉であるとは思わないですし そのためにすべての文章を否定しても意味がありませんが知っておく必要があります。
聖と言う言葉がごまかしの為に利用されているケースが多いからです。

政治 宗教 思想 すべての中には自分のアイデンテティーや願望を見たいがために自分の考えを正当化したいという考えを持ちたがる傾向にあります。

そういう人は自分の思っていることが真理なのか?判断できないために精神状態が不安定なために 愛 とか 神は とかを 必要以上に多発します。
ト教をよほど気を付けていなければ知らずにその異教偶像混合宗教とされてしまいます例を上げれば
例えば愛のある人は自分の事を愛であるとは言わないなぜなら大意では愛は他者の為のものだからです。

真理を持っておられるのはヤウエーのみですが個々感じ方が違うわけですが 最終的には真理にたどり着きます。

他の人と意見が違う時に論争が生じるのは自分の意見に確信が無いからです
最初から自分の思いを誇示しようとする 心が強いため他人を受け入れず
表面的な合意によって満足しようとします。もしくは他人を退けて 自分のアイデンティティーを確認したいため 必死になります。

この様な愛や強い思い込みはキリストとは何の関わりもありません又現実の中 政治や経済の中でそれを確証しようとすると ますます キリストから 離れたものになってしまいます。こういう方をクリちゃんと呼ぶようにしています

我々はそれで良しとされているのは キリストの中保があるからで 自らではよしとされないからですそこを勘違いすると自分の成果能力をもってしなければ 実社会では証明出来ません キリストから出た価値観と実社会での価値観は違うので キリストから出た価値観では現実社会では良しとはされません。

ですから キリストの中保なしでは良しとはされない 中保者なしでは単なる罪びとなわけですから たとえ 贖っていただけたとしても 

罪を犯しても許されると 単純にいう事は キリストの血を再度流させる 不届きものとなります。

2017年3月24日金曜日

同性婚と獣の刻印への入り口



同性愛と言う 倫理の問題がいつの間にか法の問題にすり替えられています
同性愛を聖書に基づき罪だと言えば 犯罪者(差別主義)と言われるような時代になりましたこれからどのような 時代になるのでしょうか?

2017年3月23日木曜日

二千三百の夕と朝ダニエル書の預言 


ダニエル8:14 彼は言った、「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」


ではエルサレム再建命令から2300日の夕と朝つまり2300年はいつでしょうか 起点をエルサレム再建命令にする根拠は後ほど書きます

紀元前457年から2300年は1844年になります
これを裏付けるものが 2つあります一つは 


ダニエル7:25 彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。
7:26 しかし審判が行われ、彼の主権は奪われて、永遠に滅び絶やされ、

黙13:5 この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。

ダニエル
12:11 常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。
 30 年 と 1260日 

1335年

荒らす憎むべきもの

13:4 また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、「だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか」。
13:5 この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。

オストロゴス(東ゴート)が538年ローマから追放されることにより、ローマ法王権が確立します
1798年 ナポレオンカトリック財産没収


1290年

508年 フランク王国政教一致 神聖ローマ帝国として政教一致

1260年 42か月に一致

1335年-1290年=45年

カトリックの支配が終わった 1798

46年は第二神殿を建てるのにかかった年数でもあります

1335年待つと1844年になり計算は合います

荒らす憎むべきものから「逆算しても起点は


bc四五七年になります

2017年3月22日水曜日

70週の預言 7の70倍許しなさい

 
動画に表示されるチャートは久保有政さんのサイトより引用していますhttp://www2.biglobe.ne.jp/remnant/057kanzen.htm
一日を一年とする
ダニエル9:24 あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。
9:25 それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。
9:26 その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。
9:27 彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」

ではいつから70週か?。

エルサレムを建て直せ

エルサレム再建命令は紀元前五三六年、四五七年、四四四年です
以下457年が主な再建命令と解釈できます


7:25 エズラよ、あなたはあなたの手にある神の知恵によって、つかさおよび裁判人を立て、川向こうの州のすべての民、すなわちあなたの神の律法を知っている者たちを、ことごとくさばかせよ。あなたがたはまたこれを知らない者を教えよ。

ネヘミヤ8:1 その時民は皆ひとりのようになって水の門の前の広場に集まり、主がイスラエルに与えられたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに求めた。
8:2 祭司エズラは七月の一日に律法を携えて来て、男女の会衆およびすべて聞いて悟ることのできる人々の前にあらわれ、
8:3 水の門の前にある広場で、あけぼのから正午まで、男女および悟ることのできる人々の前でこれを読んだ。民はみな律法の書に耳を傾けた。
8:4 学者エズラはこの事のために、かねて設けた木の台の上に立ったが、彼のかたわらには右の方にマッタテヤ、シマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤおよびマアセヤが立ち、左の方にはペダヤ、ミサエル、マルキヤ、ハシュム、ハシバダナ、ゼカリヤおよびメシュラムが立った。

では紀元前457年から62週で起こったことはキリストの出現です 公生涯 としてバプテスマのヨハネにより洗礼を受けました そして その3年半後に十字架にかけられました  ダニエル9:27

十字架彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう 成就
その3年半後ステファノの殉教があり ペテロが これは救いが異邦人に移ったことと言えます

使途10:12 その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。
10:13 そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。
10:14 ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。
10:15 すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。

ここで7x70 許しなさいと言われたことが成就します イスラエルの国家としての救いはなくなりました 個人としてはありますが

これにはひな形もあります エジプトを出てからソロモン神殿の再建まで

http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/057kanzen9.jpg引用



2017年3月20日月曜日

『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。ひど杉


マタイ7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

不法を働く者どもよ、はこの部分と共通です
ヨブ
34:8 悪をなす者どもと交わり、悪人と共に歩む。
34:22 悪を行う者には身を隠すべき暗やみもなく、暗黒もない

別の言い方で言えば 愛を受けるだけの クリスチャンが多いという事です
いわゆる クレクレ君です クレクレ君は 愛が無くなると なんでや~ くれくれ と神様に祈ります
愛は個では成り立ちません 両者によって 成り立つものです 受けるだけのものは 愛でもなんでもありません

2017年3月18日土曜日

荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば の 意味とは


この聖句はよく言われますが 本当の意味は説明されないことが多いですが
ここでははっきり説明されています

日曜休業令

33分ごろから
24:15 預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、
24:16 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。


ダニエル8:13 それから、わたしはひとりの聖者の語っているのを聞いた。またひとりの聖者があって、その語っている聖者にむかって言った、「常供の燔祭と、荒すことをなす罪と、聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられることについて、幻にあらわれたことは、いつまでだろうか」と。
8:14 彼は言った、「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」。

11:31 彼から軍勢が起って、神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てるでしょう。

12:11 常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。

2017年3月14日火曜日

聞かれる祈り 退けられる祈り

聞かれる祈り 退けられる祈り

主に捧げる祈りとしては 2通りあります カインの捧げもの アベルの捧げものです
カインは地の産物を捧げました アベルは羊を捧げました

勿論キリストは羊ですが 祈りの中でもっと簡単に言えば カインの地の産物は自分で努力した捧げものです アベルの捧げものは信仰です 捧げものは すべて ゆだねた ものでなければ 退けられます 結構裕福になって お金を貯めて 伝道がしたいと思っている人もいるかもしれませんが これは カインの捧げものです ほんとに伝道がしたく 祈りを聞いてほしければ 信仰によりまったく明け渡さなければ お聞きになりません

ルカ9:3 言われた、「旅のために何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。
9:4 また、どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ。そしてそこから出かけることにしなさい。



2017年3月13日月曜日

聖霊に導かれる時 どうすれば良いか?

祈っても答えが得られず 精神も安定していない時 答えが解らない時は どうすれば良いでしょうか? こういう 時は 神に明け渡しておらず 又 罪から離れておらず
の時が多いのですが  悔い改め 神を信頼して じっと待つことが必要です 又 祈り 求め続ける必要があります。 光の無い 闇の 中を 歩くことは 危険です。

イザヤ30:21 また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。

声が無ければ歩んではいけません


救いの定義はいつ変わったんでしょうか?



十字架につけられた 御子を信じる信仰により救われるのであって
キリストの愛を信じるから救われるのではない
そのような事は聖書のどこにも書かれていない
又キリストの血を信じるから救われるのでもない

キリストの愛はキリストの人格の一つである
先日も 愛は 義 と 聖 が無ければ成り立たない 
と書きましたが(どれが欠けても成り立たないと言うことです)
もう一つの理由はこれです 救いの条件として書いてあるのは 
十字架につけられたキリストを信じるとしか書いてありません
勝手に自分の都合の良い所だけ 切り取っているのである
誰がこんなミスリードを始めたのかと思う
義は信仰 聖は清め十字架 愛はキリストの性質です

キリストを信じると言うことは キリストの天父を信じる信仰を信じると言うことと同じです

ガラ2:20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである

さらに説明すると キリストとかかわりがありキリストを知っていなければならないと言うことです。はっきり書いてあります。愛と言うのは個人では成り立たず必ず相手が必要ですですから こちらからも あちらからも 双方向でなければ成り立ちません

(マタイの福音書 7章21-23節)
わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天 の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです 。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出 し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
では父の御心とは何でしょうか

ローマ2:18 御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、

歴代誌上16:14 彼はわれわれの神、主にいます。そのさばきは全地にある。
16:15 主はとこしえにその契約をみこころにとめられる。これはよろずよに命じられたみ言葉であって

戒め十戒トラーです キリストはモーセの律法トラーをすべて守っておられました
でなければ罪なき全き子羊にはなりません し 贖いも成立しません。
(これに関しては下らない反論を良くされますが良く調べてからお願いします)

キリストは生きた立法者トラーなのです(モーセにご自身が教えられたわけですからこれと相反することはありません)

さてみなさんの好きな愛ですが 愛とは何と書いてあるでしょうか

申命記
6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。
6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、
6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。
6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、
6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。


2017年3月10日金曜日

悪霊の奇跡を見抜く1


悪霊の預言や奇跡と神からの預言や奇跡はどう見分けますか 
マタイ 7:20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
しかしながら 実際には そう簡単ではありません人をだますのはサタンは手が込んでいてわかりにくいです。
パリのテロや様々なテロ事件などでは完全に世論操作のために作られています 私はある意味こういう事が解るのは いやらしい根性なのかもしれませんが神様のご性質を知っていなければ騙されます
悪霊は霊を派遣してきます知れば怖いことはありまえん  文章で書くと長くなりますので youtubeで聞いてください半ばぐらいからが本番です

愛が成り立つのは 義 と 聖 が無ければ 成り立たないのです

愛が成り立つのは 義 聖 愛 です 罪は義によって裁かれます 聖は罪を追放します 愛は義が無ければ成り立ちません
聖が無ければ愛も成り立ちません。

ゆえに人は 神とは断絶されていつのですが 罪びとでは神の国に入ることはできません
勘違いしてはいけないのは 何でも許されるから 素晴らしいい神様なのでしょうか?愛なのでしょうか
愛が成り立つのは 義 と 聖 が無ければ 成り立たないのです。

信仰に寄らなければ義が成り立たず 悔い改めが無ければ聖化はありません
許され贖罪に導かれますが

毎日の生活の中で 神につながるか この世に つながるかの選択をしているのは
あなた自身です どちらに行くにも 自由意志が与えられています
神につながっていなければ 行きつく先は死です

これらの罪の為に 自分を自ら捧 贖いを 与えてくださったわけですから


毎日新生しているか確認する必要があります。


文章を簡潔にしすぎたため 多少誤解されているかと思います 義 にも 聖 にも 愛に 導くにも自分の力ではできず キリストが導くと言うことは確かですキリストという命がメインであることは間違いありませんが新生はいつも確認する必要があるといういみです



食べ物安息日を評価されてはならない コロサイ2:16


下らない反論お待ちしています

これを否定的と捉えるのは 読みが浅い
前後と文意をちゃんと理解しないと
安易な解釈 あちらは こう書いてありますが こちらはこう書いてあるからこうですよ というような読み方では 理解できません

批評されてはならないと書いてあります 
読売巨人軍の批評はしてはいけませんを
読売巨人軍は存在しませんと言っているようなもの
要するにこういった物の中の細かい規則影(キリストが実体)であり細かい規定(私はどこまでが影かまだ分かりませんが)そのことで裁いてはいけませんよ と書いてあるのですタルムッド 言い伝えなどに対しても書いてあると思います
コロサイ
2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。

よくある 律法は成就したから守らなくてよいが その精神は重要である と 言われる方がありますが これって なんですのん?反対の反対は賛成なのだ~ と バカボンのパパみたいな話はあり得ません

律法は体 神の宮として汚さないと言う意味で律法に食事の規定が書いてありますです その中に影の部分があるとしても 体を汚さないという意味では実体の律法は有効です


何処か存じ上げませんが 私よりは マトモそうな 牧師さんもそういっておられます 

http://efctachi1.cocolog-nifty.com/…/2013/06/26-23-8787.html
4. 「本体はキリストにある」のに、その「かしらに堅く結びつくことをしません」
  「こういうわけですから・・」(16節)とは、8-15節の説明を踏まえて、キリストにある新しい民としての具体的な生き方の勧めです。ユダヤ主義者はギリシャ人を中心としたコロサイ教会に、モーセ五書をベースにしていると言われる「食べ物と飲み物・・祭りや新月や安息日」の「言い伝え」を守っていなければ神の民としてふさわしくないと「批評」(または「裁いて」16節)していましたが、それに対し、パウロは、彼らの主張に耳を傾けてはならないと命じました。
ただし、パウロは、聖書に記された食べ物や祭りの規定を否定したのではなく、「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにある」(17節)と表現しました。
イエスご自身が、「わたしが来たのは律法や預言者を・・廃棄するためではなく、成就するために来た」(マタイ5:17)と言われたからです。  

ユダヤとモーセの律法を勘違いしている例 ごめんなさい↓
http://heartland.geocities.jp/sfddrcc/colossians.html
No.06『本体はキリスト』
◆コロサイ人への手紙2章16~17節
こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。
 旧約聖書には律法というのがあります。一般にモーセの律法と言われるもので、十戒を代表とする様々な倫理規定のことです。そこには、道徳的なものもあれば、祭儀的・宗教的な規定もあり、更には司法に関する取り決めなどがあります。ユダヤ人はこの律法を神の命令と信じて大切にしてきたし、それ以外の預言書や諸書と呼ばれる旧約聖書の文書も、律法の精神に基づいて記されているのです。キリスト教はこの旧約聖書を正典とみなしているので、ユダヤ人同様にそれが神の言葉だと信じていることになります。ところが、現代、私たちクリスチャンは律法を守っているでしょうか。そこに記された細かな規定を守っているでしょうか。それを守ろうと必死になっているユダヤオタクみたいなキリスト教徒がいますが、果たしてそれは正しい態度なのでしょうか。実際、使徒たちは律法の細かな規定を守っていなかったのです。ペテロにせよパウロにせよ、ユダヤ人コミュニティーの中にいる時だけは、ユダヤ人に合わせていましたが、異邦人たちと共にいた時は律法の規定を犯していたのです。なぜでしょう。それは、律法というものが「次に来るものの影であって、本体はキリストにある」からです。ですから、キリストが来られた以上、旧約聖書のお祭りや安息日律法などを守る必要はありません。律法には食物規定というのがあって、食べてはならない動物がいろいろありましたが、今はキリストが来られた以上、何を食べてもかまいません。律法は成就したのです。じゃあ、何をしてもいいのか?ある意味、何をしてもいいのですが、全てが益となるとは限りません。律法の様々な規定は終わりましたが、その精神はキリストを通して今も生きているのです。それは、神を愛し、自分を大切にし、同様に隣人を大切にするということです。本体であられるキリストを信じた以上、私たちは愛する自由の中を生きるのです。何ものにも縛られず、同時に、与えられた自由を愛することのために用いていきましょう。

2017年3月9日木曜日

罪びとこぞりで


罪びととは神から離れることです しかし 説明が困難になるので 義人という話からしていきます

恵とは
どいう言事かと言うと 義人とは 神の恵みを受け入れることです
(キリストの贖い)
しかし これは 一見与えられるもの の様に感じますが 自分の持っているものを捨てなければ 受け入れることが 出来ない恵みなのです

キリスト者になる方も 多くは自分でどうしょうもない 出来事があった時に キリスト者になった という方が多くおられます。それは 自分の物が無くなっていて キリストの恵みを受け入れやすい 時と言えます。

キリストの品性とは
キリストを信じると言う事=キリストの天父を信じる信仰を信じると言う事
キリストのご性質は与えるご性質です ですから 恵は 受けますが 頂いた恵みを
人にも あげるように なります。又神様から頂いたものが無ければ人にも与えられません。

罪びととはこの恵みを受けず 自分で事をなそうとします。自分の能力でと言うことです。この様に恵みを受けずに 行うことは全て罪です 頂いていない神からの物を持っていないから 自分の能力を頼るのです。いわゆる贖い無の行いは全て罪と言うことです
又恵みを持っていても使わなければ同じです
両者は明らかに 結ぶ実が違うのです
これは ヨブ記を見ればわかることです 最後はヨブはなんと言いましたか?

42:1 そこでヨブは主に答えて言った、
42:2 「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。
42:3 『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。
42:4 『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
42:5 わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。
42:6 それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。
42:7 主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。
42:8 それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。あなたがたはわたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。
42:9 そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、主が彼らに命じられたようにしたので、主はヨブの祈を受けいれられた。
42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。
42:11 そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、彼と共にその家で飲み食いし、かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。
42:12 主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。
42:13 また彼は男の子七人、女の子三人をもった。
42:14 彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名づけ、第三をケレン・ハップクと名づけた。
42:15 全国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。
42:16 この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。
42:17 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

又ヨブ 33:23 もしそこに彼のためにひとりの天使があり、千のうちのひとりであって、仲保となり、人にその正しい道を示すならば

何と途中にキリスト が現れます






2017年3月8日水曜日

カルトは何処にでもある 谷川鹿男の聖書考察 キリスト教 クリスチャン


カルトとは信仰が伴わないのに強制的にやらせる事はすべてカルトと言える受け取る側がそう思っていなければ問題ないが そうでなければ 人格をも破壊する強烈なカルトである 何故なら 言っていることが正しいから 逃げ場がないのである 信仰が伴わず正しいことを行えるはずが無いからである。

https://www.youtube.com/user/SunriseMinistry サンライズミニストリー

明け渡すことと命のつながり 聖書考察 聖書 キリスト教


人は自分を見たし満足させようと 物 金 知識などを求めますが決して満たされることはありません 神とつながって得られるものこそが 本当の命と 糧 となります。
検索 クリスチャン キリスト教 教会
http://srministry.com/ サンライズミニストリー
http://sunsheeps.blogspot.jp/ 子羊の婚宴

2017年3月6日月曜日

神は愛である というがそれから?信仰と希望と愛

神は愛であるが それから だから 何をしてよいのか わからなければ
神との信頼関係は築き得ない 愛であるだけで終われば 実生活の中では役に立たない

暗闇の中でこそ真の戦いに勝利することができる
がそこには信仰による熱心な祈りとその答えを頂く事により 
確信と希望が与えられるのが 本当の勝利なのである

1コリン13:13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である

生活の中で自分ではドウショウモもできない様な 事態に直面することがある
いわゆる 自分の 持ち物が無いと言うことを自覚すると言う事である
本来すべてがそのような状態で 自分のモノを頼っているがため 表には出てこないが
すべてをキリストに明け渡さなければ無意味であるが みな 自分に不都合な事 自分で処理できない 事が起こった時に のみ明らかにされる
あるものも無いようにふるまわなければならない

箴言13:7 富んでいると偽って、何も持たない者がいる、貧しいと偽って、多くの富を持つ者がいる。

愛である方であるからこそ 信仰を持ち御心の成るように願わなければならない 
そして希望を得られるのである

2017年3月4日土曜日

悔い改めとは 簡単に言うと 罪なき自分に変えられることを ゆだねられるか ということです

悔い改めとは  簡単に言うと 罪なき自分に変えられることを ゆだねられるか ということです
 例を上げますとクリスチャンになった時 煙草をやめましたが 煙草を吸っている時は
 煙草をやめている自分と言うのは想像もできないものです 中毒になているわけですから なおさらそうです。

 自分の思いの中には煙草を吸って 体を中毒患者の自分に戻したいわけです それが中毒 罪の法則です 今まで生きてきた自分が罪の中にあるほうが 楽なわけです

肉的な潜在意識は変化を嫌いますから もとに 戻したがるわけです。 又数か月 数年 経っても 罪の欲求は又出てきたりします ここではよほど注意しなければ又元の自分に戻され悪戦苦闘することになります

 そこで 罪から逃れ 天父に喜ばれる品性になるには ゆだね 自分を変えてほしいと願わなければ 罪から離れられません。 そこに信仰が必要です へ

ブル11:1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである

間違った悔い改めとは ユダ や サウル のように 自責の念や良心はありますが  罪を犯した 怖さ や苦しみ から逃れようと するだけでは 又 繰り返します。これらはキリストから来る良心とは違います

 キリストから引き寄せられる事を罪びとは拒みます 自然にゆだね 変えられる自分を 受け入れなければ なりません もう一つ重要なことは 通常の生活をしていれば気づきませんが キリストを知り その 恩寵 恵にあずかると 自分がいかに罪深いか解ってきます

それは キリストの品性とは程遠い生活をしていると言うことです。これを知ることにより ますます キリストの ご品性に 近くなられれば 幸いです。

 さて 罪とは 何でしょうか? 律法に違反することです  しかしながら 律法は思いの中にも適応されるわけですから 書いてあったことさえしなければ 良いと言うわけではありません その 思いの中に 生きた立法者 生きたトラー キリストが あるか ということが 重要です 上辺だけの罪に対する認識では すぐにやられてしまいます。 戒めは十戒を筆頭にモーセ5書 創世記から申命記までは関係ないと思っているクリスチャンが多いですが読む必要があります。 罪びとは神の戒めを堂々と破りますそして神の清さが苦しくなり神から離れます。
パウロは「律法の義については(外部に現われた行為)落ち度のない者 である」(ピリピ 3:6 )と申しましたが、ひとたび、おきての霊的精神 が理解されたとき、自分は罪人であると悟ったのであります。人がおき てを外的生活にあてはめ、おきてを字義的に解釈すれば、彼は罪を犯し ていなかったと言えるのであります。しかし、その聖なる条文の深い精 神を見つめ、神が見たもうように自らを見つめたとき、心へりくだって み前に伏し、自らの罪を告白したのであります。彼は「わたしはかつては、 律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたし は死んだ」(ロマ 7:9 , 1 0 )と申しました。
間違ってはいけないのは 他のクリスチャンもあれぐらいだから とか そういう罪に対して 言い訳をする事です神は憐み深い方だから許してもらえる と 言うことです その罪の恐ろしさは十字架で示されたわけですから 今だ この様な事を言うのは明らかに間違っています。 又罪にふけるのを辞めることを 遅らせることも 問題です 何故なら罪にふけることにより 神を嫌う性質をやしなうからです
自分を神に捧げたいと望んでいながら、道 徳的の力が弱く、疑惑の奴隷となり、罪の生活の習慣に支配されていま す。どんな約束も決心も、砂のなわのように弱く、自分では自分の思想、 衝動、愛情を制することはできません。こうして約束を破り、誓いを裏 切って自分の誠実さに自信が持てなくなり、神は自分を受け入れて下さ らないのではないかと思うようになります。しかし絶望するには及びま せん。ただ必要なのは本当の意志の力とはなんであるかを知る事であり ます。意志とは人の性質を支配している力、決断力、選択の力でありま す。全てはただ意志の正しい行動にかかっているのであります。神は人 間に選択の力をお与えになりました。つまり人がそれを用いるようにお 与えになったのであります。私どもは自分の心を変えたり、また自分で 愛情を神に捧げることはできません。けれども神に仕えようと選ぶこと はできます。意志は神に捧げることができます

2017年3月3日金曜日

映画サイレンス 沈黙 について


映画サイレンス 沈黙 について
私はこの映画予告編しか見ていませんが(本篇は)見るつもりでいますが
予告編だけ見ただけでも 大悪党が うまく 作った映画だな と思いました
と言うと驚かれる方が多いと思われますが 早く 担がれていることに 気が付くべきだと思います。

みなさん 感情に 訴えてくるものは 注意が必要です

み言葉 聖書に照らし合わせて 映画の内容がどうであるか 考察してみましょう

懺悔を宣教師や神父にしていましたが 仲保者はキリストです。人に懺悔しても関係ありません

踏み絵は偶像です この様な 偶像を あがめよ とは 聖書に書いてないばかりか

十戒に 偶像崇拝をしては ならない と書いてあるのを カトリックは削除しています。

マリア崇拝は古代バビロン エジプト に伝わる 女神崇拝です

この様に聖書の教えにはまったく合致しない教理であり

全く偽物の残忍な宗教です

ルターの主教改革で力を失ったローマカトリックは宣教し世界に出て勢力を強めようとした そのため イエズス会ザビエルを 日本に派遣しました
イエズス会はルターなどがローマ教皇権の大嘘を暴いたためこれを隠し プロテスタント教徒を迫害するために作られた組織です(カトリックは古代の宗教を合併させた宗教でその一つがキリスト教と言うだけで巧妙に似せてはいますがキリストの教えとは関係の無い組織です)

一番恐ろしいのは 本物の踏み絵 キリストに忠実なものを迫害し殺す
が近い将来起こるかもしれないと言うことです。
今度はやらせるほうが 逆になるはずです。
来る将来宗教支配を企てているためイメージ作りを今のうちに しておきたい魂胆でしょう今の教皇はイエズス会です最後の引き金を引く役目をする 可能性があります

ヨーロッパではワルデンセスをはじめ1億を超える人が ローマカトリックが迫害し殺したと赤間氏は言っておられます。これはナチスや共産党どころではありません
歴史上最大のテロリスト集団です この様な事をしても批判されないのは キリストを表面上装っているからです

この様な組織ですから日本に何をしに来たかは想像するのは容易です。
信長は鉄砲や弾薬などの武器を好み取引相手としましたが 宣教師たちに私を
神と呼べと言ったそうですおそらく殺された原因はそこにあると私は推測します。

秀吉はヨーロッパの力を借り統治を安定させようとしましたが(スペイン艦隊を大阪湾に呼びたかった)
九州でキリスト教徒がイエズス会の手先になり寺を焼き払い
クリスチャン大名は 女奴隷火薬一樽 で 交換し 大変な事になっていたため
イエズス会カトリック教徒を国内に入れる事を危険と判断し イエズス会に先導されたキリスト教徒を迫害し始めました ご存じ 26聖人はほとんどが イエズス会とフランチェスコ会で先導したため処刑されたのです

これを知った徳川はプロテスタントオランダと手を組みカトリックの乱行から逃れました


天草の乱も 天草四郎に武器を供給し 反乱を起こさせ 植民地化しようと試みています

物は言いようで殉教者としてテロリストを美化しているわけで こういった 人をだます事をする 人たちを信用するのは 愚かです。

もっと悪いのは こういった殉教が起こる事はあらかた予想されていたのも関わらず あえて 信仰者を利用したことです これほどの 悪はなく獣悪の権化です




宗教改革のリーダーたちはこうコメントしています

1) マルチン・ルター
「パウロは第二テサロニケ2章3、4節に『まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する』と記しているが、その存在がここにいる。『不法の者、すなわち、滅びの子』とあるが、・・・彼は神の戒めを廃して、神の戒めの上に、自分が作った戒めを高めた。我らはここで教皇権が本当に反キリストの座に就いている事実を確信するのである」(LeRoy Froom,The Prophetic Faith of Our Fathers,Volume2,page28)

2) ジョン・カルヴァン
「私は、教皇がキリストの代理者になることを否認する。…彼は、偽キリストである。・・・私は彼が教会の頭になることを否定する」(John Calvin Tractc,Volume1,page219,220)

3) ジョン・ノックス
「何代にもわたって教会の頭として君臨してきた教皇が、まさしく、使徒パウロが言った反キリストであり滅びの子である」(The Zurich Letters,page199)

4) フリップ・メランヒトン
「ローマ教皇権が、巨大な組織と王国を持っている反キリストであることは、全然疑う余地のない明白な真理である。・・・第二テサロケ2章の2節で、パウロは「不法の者が、神と呼ばれたり、拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座って支配することになる」と、はっきり言ったのである。”(LeRoy Froom, The Prophetic Faith of Our Fathers, Volume 2 page 296-299)
5) アイザック・ニュートン
「教皇権は、残りの十の角と異なる種類の王国であった。・・・ローマ教会は預言に現れた、先の者と異なる王である」(Sir Isaac Newton, Observations of the Prophecies, page 75)
6) ジョン・ウェスレー
「ローマ教皇権が、すなわち、不法の者であることを強調する」(John Wesley, Antichrist and His Ten Kingdoms, page 110)
7) サムエル・リー(17世紀の有名な聖職者)
「ローマ教皇権が、反キリストである事実は、英国のすべての主要教団の間で共通に受け入れられている教えである」(Samuel Lee, The Cutting Off of Antichrist, page1)

  長老教会で採択されている、「ウエストミンスター信仰告白」(Westminster Confession of Faith)から引用した次の内容は実に重要な資料です。

「イエス・キリスト以外に異なる人が、教会の頭になることはできない。特にローマ教皇はどのような面からも、教会の頭にはなれない。教皇はまさに、不法の者であり、滅びの子として、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするもの、すなわち、神とイエス・キリストの上に自分を高めた反キリストなのである。”(The Westminster Confession of Faith, Section6, Chapter 24)

  スイスにおいても、教皇権が、聖書に預言されている反キリストであると言及しました。『スマルカルド(Smalcald)条項』はルター派教会の声明書で、そこでは、教皇は自分を高めキリストに反抗する、まさしく反キリストであると言及しています。
1680年の『ニューイングランド信仰告白』では、教会の頭はイエス・キリストであって、滅亡の子であり、偽キリストであるローマ教皇ではないと言いました。


「教皇権を反キリストと同一視することは、宗教改革の中心をなす思想であった。この見解は、ルターや、他の宗教改革者たちが教皇権と対抗することが出来た大きな原動力となった」(Encyclopedia Britannica, 1962 edition, Volume 2, page 61)

  このような信念に従って推し進められていった宗教改革の運動は、徐々に弱まっていきました。しかし、少なくとも19世紀末までは、ほとんどすべてのプロテスタントの教団では、依然として教皇権と反キリストを同一視していました。
  ところが、今日、世界的に成し遂げられつつある教会(宗教)合同運動の結果、そこで醸成された雰囲気の中からは、教皇権と反キリストとを同一視する見解は、非常に起きにくくなりました。幾人もの福音主義のクリスチャンたちが、カトリック教会を反キリストとする立場は、現代社会において特に重視するような問題ではないと言って、このことを無視してきました。


カトリックに迫害された殉教者たち

2017年3月2日木曜日

自分を高みに置く人たち

選民なら優生学にたたず なおさら 謙虚でなければならないと思う
教会に行くと必ずこういう人たちがいます 牧師でもなんでも関係ありません 自分たちは神の言葉を代弁していると思っていても 自分の経験や信仰から話さなければまったく説得力がありません がそのことを知らず に自分を高みに置いているため  一般人から見られてもバカにされています そのことが キリストからなお一層人々を 遠ざけているわけですが 自己満足の為自身で気が付きません 聖書の内容をよく知らないので 単純な考察しかなく 矛盾だらけでも気が付きません 自分の地位を失いたくないために 最後には 人格批判や 異端 という レッテルをはり 自分の地位を守るために 毒を吐きます 一見礼儀正しく好感が持てる人たちですが このような状況になると態度が一変します それが特徴です 心を開くと 傷つけられたりしますので そのような事で教会に行かなくなった話はほかにも聞きます
近日このような営業まがいの牧師などが多く私自身本当にひどい体験は多くしています信徒を獲得したらどうとか ほぼ そういう人たちで構成されていると言って間違いないのが今の現状です
関係ないことは一切言うなと金ジョンウン状態です
優生学の選民思想そうでない方を探すのがむつかしいですね


異端者でも救いに導くべき人を遠ざければその血の責任は裁きの日には問われます


議論した内容は以下のとおりです
新約 旧約 の 約 意味は 不明なままです
旧約 動物の贖いと 地上の幕屋での儀式 これは 皆さんわかると思います「
新約は何が新約なのか?これは 一般的に言われていいるのは 的外れも いいところです
十字架は トラー 律法の成就です 過ぎ越しの日に殺されました (旧約の成就)
レビ記の内容に沿って贖いが行われていました
十字架はそれと同時に新約の始まりです これは sdaの最初を見ないとわからないです
キリストの血は幕屋の外庭における血と焼くための祭壇に当たります 
その血を持って聖所に入り聖所の清めをやっていましたが それが 終わるのが
ダニエル8:14 彼は言った、「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」。
と書いてあるので間違いありません この計算は70週の預言と重なっておりニュートンの計算していた日にちともぴったり合っています
この聖所の清めが終わると言うのを再臨と勘違いしていたと言うことです。
レビ記では至聖所に入るのは年に一度贖罪日に大祭司が至聖所に入ります
今は大祭司はキリストで天の幕屋で清めを行っておられます
へブル書読めよ!!!8ぐらいから
これが本当の意味での天の幕屋での新約という意味です
みんなが読まないレビ記 とへブル書を対比して読めばわかることです
天の幕屋での清めが本当の新約であり十字架は新約の始まりということです
牧師でもレビとへブルの対比などしている人もほとんどありません
人の話を鵜呑みにして 自分で考察し キリストに使えず
ああだ こうだ と 単純に レッテルを張る事 など 何の 意味もありません
子羊の婚宴http://sunsheeps.blogspot.jp/

エホバの証人に聞かれたらどう答えますか? 十字架か杭か



杭と答える人はユダヤ人がキリストを殺したと思っています
何故なら律法にある処刑は 木にかける⇒呪われたもの 石打⇒民から裁たれる
火刑⇒姦淫 なので 十字架とは書いてないからです

しかしキリストを殺したのはユダヤではなくローマです正確にはユダヤがローマに殺させたと言うのが正しいと思います だから 十字架です。

ユダヤ論では彼らの話は理論的に矛盾しています レビ記では罪を犯した者が犠牲の捧げものを殺します ですから ローマ人異邦人の罪を贖ってユダヤの罪は贖っていないことになります

念のため書いておきますが律法を知っているものも知らないものも律法によって裁かれます。
サンライズミニストリー
https://www.youtube.com/channel/UC_Mr...
子羊の婚宴
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2017年3月1日水曜日

日本人の宗教心はどこから生まれたか?

自然崇拝
祖先崇拝
シャーマニズム
仏教
原始キリスト教

皆さんがなじみ深い  天皇 の 神道 は 皇祖霊 天照大御神 は神 というよりも怨霊の性質が強い 祟りが怖く祭っていると言うケースが多い

神道は外来の宗教と思われがちですが
イスラエルの失われた10部族の影響が大きいです
日本古来の自然崇拝と結びついて今日に至っています

秦一族は初代キリスト教会であった 可能性がある 景教として 日本に伝えている
広隆寺など
bc70 エルサレム滅亡の時 テラ ⇒ 弓月⇒日本
ヤウマトとは神の民と言う意味

空海弘法大使最澄は景況の影響を受けているが キリストが隠されている

その他からからの宗教の影響 仏教として混合宗教

多くを知る必要はないのかもしれない

聖書の知識 知っていることは必要ですが 多くの事を知っていても キリストの性格 と自分の性格が乖離していれば 何の意味もありません 知識だけでは 全うすることはできないでしょう。 知識を得たいと言うのは自分の知的願望であって キリストを知りたいと言う願望とは性質の違うものに...