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2017年2月23日木曜日
過ぎ越しと十字架
過ぎ越しの日に殺されるのは メシア の証明ですが キリスト教はほとんどが金曜に殺されたと言っています。この様に 十字架の贖いを過ぎ越しと切り離すことによって
贖いを無効にしています。 もし僕が間違っていたら日にちがそれぞれ違う理由をぜひ教えてください
ユダヤタルムッドがモーセの律法とどうして 混ぜられたのか?それにはちょっとしたダマシが入っています 実を言うと キリストの処刑は モーセの律法の成就(贖いレビ記)なのです が これがばれると 救世主の証明になってしまうので 巧妙に 聖書の翻訳がいじられています しかし ヨハネの福音書だけが いじられていません
ネタバラシ をすると キリスト教の人たちは 金曜日 に殺された と言います。
過ぎ越しの日に殺されたとは言いません 過ぎ越しの日に殺されたと書いてあるのはヨハ
ネだけです 過ぎ越しの日に殺されるのは メシア の証明ですが 金曜日に殺されたで
は贖いの意味はありません 日にち計算が間違っているだけならまだしも です
安息日の前と書かれているのは過ぎ越(処刑の日)
しの次の日除酵祭の最初の日が大いなる安息日とされているからです
それだけ メシアを隠したいという意図が入れられている訳です
マタイ マルコ ルカ では 金曜日に変え日にちを合わせるために 実際のありえない除酵祭の最初の日に過ぎ越しの食事の準備をしたと書き換えています除酵祭は過ぎ越しの次の日になるので過ぎ越しの日に処刑されたということにはなりません
しかしヨハネの福音書だけが過ぎ越しの日に殺されたと言っています
ピラトのシーンで過ぎ越しの日に 殺されていることが解ります。
ヨハネ18:39 過越の時には、わたしがあなたがたのために、ひとりの人を許してやるのが、あなたがたのしきたりになっている。ついては、あなたがたは、このユダヤ人の王を許してもらいたいのか」。
18:40 すると彼らは、また叫んで「その人ではなく、バラバを」と言った。このバラバは強盗であった。
ところがマタイ マルコ ルカ では 過ぎ越しの食事(最後の晩餐) の 準備を 除酵祭の最初の日と書かれています
26:17 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。
除酵祭の最初の日は 過ぎ越しの次の日なので 殺された 次の日の昼間に 食事の用意に出かけたことになりますので全く矛盾します 又除酵祭の最初の日は大いなる安息日と言われ外出できませんのでここも明らかに外出することは間違いであると言えます。
キッチリシュミレーションすると
ヨハネ
火曜日の昼 過ぎ越しの食事(最後の晩餐の用意)
火曜日の夜
ここからが過ぎ越し 過ぎ越しの食事 ゲッセマネ
ペレロを起こされたのは過ぎ越しの日は寝てはいけないことになっているので合致)
水曜日の 昼間 .
ヘロデ ピラト バラバ が許され 処刑
水曜日の夜
除酵祭の最初の日 (最初の日と7日めは大いなる安息日)
3日 3晩 で 土曜の夜 日没後 に 復活
聖書の記述 マタイ マルコ ルカ
では何度も書きますが 除酵祭の最初の日は過ぎ越しの次の日になります 殺されたのは過ぎ越しの日ではなく 金曜日の昼間と言うことになります これでは 律法の成就にはなりませんし
ヨハネの記述とは一致しません
木曜日の昼 除酵祭の最初の日 に 過ぎ越しの食事 の用意
木曜日の夜 過ぎ越しの食事 ゲッセマネ
金曜日の昼間 ヘロデ ピラト 処刑
金曜日の日没 安息日
日曜の朝復活 となりますが 3日3晩ヨナの印にはならず
ヨハネのほうがキッチリ説明が付き辻褄が合います
では何故マタイ マルコ ルカは 変な事に なっているのでしょうか
ユダヤにすれば過ぎ越しの日に殺されるとメシアの証になってしまいます
ユダヤとしては絶対メシアと認めたくないわけですから ここは意図的に日にちをずらし 金曜日の昼間と変えるために 変更していると思います
金曜日に殺されたイエスでは ユダヤ人にすれば 救世主と認めなくて済みます
つまり メシアを本物であることを隠す意図があると思います。それに当時のキリスト教が加担していると言えます
書き換えらえたのは ヘブライ語からギリシャ語に帰られた時もしくはマソラの段階と思われます。
では この事でどのような 影響を与えているかと言うと
律法(トラー)と福音が切り離されて考えられていることです
本来福音は律法の成就と天の法則(御心) であるはずですが
律法的 福音的 と分けられて考えられています。
その他多くありますが 律法 トラー との関わりがかなり変わったものになるのではと思います。 誤解なきよう書いておきますが 律法は今は信仰による で 戒律によるものではありません
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返信削除『モーセ』では、(1/8)を「過越」、(7/8)を「除酵祭」と呼んでいる。
返信削除『ルカ22:1』では、「過越祭といわれる、除酵祭が近づいてた」より、「過越祭」=「除酵祭」=「8/8(全8日間)の祭り」の意味で書かれている。
また、『ルカ・マルコ・マタイ・行伝』はユダヤ時間。『ヨハネ』だけがローマ時間。